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ナイトスポット 1

文:渡邉 宇京

写真:松原悠也

 たとえばふたつの眼をふさいで、夜にうがたれたアナボコを知るのならば、降りつづける雨のあやしくけむるむこう、実情をうしなった水平線が色褪せくたびれてぼろぼろのみすぼらしい毛布になり、よこたわる不可視の大怪獣の亡骸におおいかぶさるころあい、アナボコ、夜の洞はへんな感じに(けれどやたらとおおきく)ひらかれた口腔の奥の歯の実質欠損としてうがたれていて、その傷口から体液が流れることは全然ふつうにないので、波のざわめきと大気のうねりの混濁した中空に(なぜなら大怪獣のからだそのものは不可視なのだから)けっきょくのところアナボコだけがむきだしのがらんどうのけしきで浮上している。

 実質欠損という言葉は弓佳がおしえてくれた、けれど一緒におぼえた「うしょく」の漢字はわからない。なんにせよ、虫歯に関係するらしいぞとわかり、やわらかいのに居心地のわるい椅子に腰かけたまま、すずしい気分になったのだった。弓佳はひざ掛けの毛布をブランケット、歯医者の椅子をユニットと呼んでいて軽やかな声と仕草が良かった、好きだった、愛しはじめていた。壁に飾られたツバメの写真を指差して、じぶんが駅で撮影したのだが歯科クリニックにはあわないと(鳥類のくちばしと歯の治療の無関係をわらいながら)弓佳は溜息をついて、きっとマスクを外せば片頬だけにえくぼを浮かべるのだと予感させる。

 鳥は好きだけれど苦手だって言いだせずに弓佳を見あげているうちに、馬鹿みたいにおおげさな哄笑であらわれた歯医者が彼女の肩に手をおきあけすけな親しさで「ユミカ」と微笑めば、ほんとうは名前のない歯科助手でしかなかった彼女がユミカになり、つづいて歯医者のお喋りでふたりが夫婦であること、秋枝弓佳の年齢は二九歳、四つあるとばかりおもっていた僕の虫歯がひとつきりだといったことを知らされた。僕は顔をしかめるかわりに眼をつむって顎をひき、ひびわれた花瓶を想像する。

 さざなみの群れが夜を切りつけるさまが不可視の大怪獣の亡骸にひとつひとつ記録され、やがてもつれあう無数の亀裂がうじゃうじゃ繁茂するクレマチスの蔓になり、いやらしくてうっとうしい、亡骸の無抵抗にまとわりついて、よるべのない感性の定義域を囲繞する。

 両手をおろして、現実のアナボコを雨にうたれてびしょ濡れの窓越しに眺めようとすれば、もちろん不可視の大怪獣の亡骸もクレマチスの蔓も見えなかったけれど(それに窓はそんなに濡れてなかった)予想を裏切って、ちらちらと幾つかの人工の光がアナボコのうちで糸くずのように明滅しているのだった。ひるがえりながら錯綜するそれらの輝きはめちゃくちゃ綺麗で、わけもわからずに感動しているととつぜん歯が痛くなりはじめ、だしぬけに僕は現在を獲得する、あるいは現在に捕獲される。

「ハツシマだ」と弓佳は言う。ハツシマだよ、知らないの? あれはアナボコじゃないからね、ハツシマ、島だから。窓ガラスに額をあずけたまま弓佳はしらけた笑い声をあげた。灰を浴びた鳥たちのように壁や天井のところどころ剥がれ落ちたがらんどうの部屋に反響し、廃ホテルの七階のこの一室、僕は僕の歯痛に頬をゆがませている。

 知らないの? と弓佳はくりかえす。そして「連れてって」とつけくわえた。

 あそこに行けば一緒にメジロへ帰ってくれるんですか。

 一日中弓佳を捜しまわって、とちゅう起雲閣でしきりに頷いたり、熱海ロープウェイを何度か往復した(高さ百メートルほどにむかって、片道三分で移動出来てしまうのが楽しい)以外は熱海の街をあるきつづけていた。坂のおおい街は消失点をとらえるのが難しく、みえていたはずなのに唐突の感じで人物や店や曲がり角がひょっこり出現するのだから、しぜん僕の手にあるのはみかん饅頭やアイスばかりで弓佳の消息に関する手掛かりはつかめず、分厚い雲と雨のせいで陽の暮れなずむ空を眺めながら頬杖をついたとき、僕は有名な洋菓子店でロールケーキを注文していた。けれど何を食べても味が呆けていたのは、歯医者にうたれた麻酔のせいにほかならない。虫歯治療の必要があり、そのためにこそ僕は弓佳を連れ帰るのだ。

 三十分で終わるから、と歯医者は言ったのだった。麻酔をうたれた僕が眠りに脱落していくとちゅう、ふつうに考えてあきらかに麻酔が強すぎるとおもいながら、歯医者がなにやら機械的に単語をならべるのがきこえた。シンとかポリとかチョウとかヨギとかそんな感じの言葉が円環を描き、わけがわからなかった。眼を覚ますと頭がひどく重かったけれど、歯痛はなかった。肩と脇腹を押さえる歯医者の汗ばんだ毛むくじゃらの両手によって揺り起こされたのだと悟る。治療は終わっていなかった。

焦燥感の浮き彫りになった饒舌で、歯医者はできごとのいきさつを語った。

 どうやら僕のねむっているあいだに、歯医者が弓佳とくちづけを交わそうとおもいたち(もしかすると治療中の接吻はふたりの習慣なのかもしれないが)たがいのマスクを外して、唇に唇を縫いつけるために視線の糸で愛をたぐりよせる、はずが歯医者はぶちぎれて彼女を殴った。ためらう弓佳のまなざしのさきで、マスクの裏が口紅にぬれていたから。

 「厚化粧が当院を侮蔑した。妻は歯科衛生士失格だ。不適切だ。不潔な事件だろ? 俺は恥ずかしいよ」とぶよぶよの唇をふるわせながら言う。「しかしながらしかしなあ、ありえないことなのだよ。つまり俺の妻がマスクを汚すという無責任を意図してしでかすとは考えられない」「あれは常に俺の最愛の妻なのだから。妻が今日突然変化したと考えるべきではないな。ありえないことを詮索するのは建設的ではないうえに、そもそもありえないことは発生しない。ならば何が起きたのか」「つまり事件ではなく事故、俺が妻を誤解したということだろ? 正確には妻が俺を誤解させたから俺は誤解した。あの汚れは血液だった。ああ、そうだ。妻は病気か怪我を健気にも隠していた」「俺はだから愛の回復に前向きさ。俺たち夫婦はどうすればいい」僕が黙っていると歯医者は「愚図でもわかる。まずは双方の謝罪、これに限る」と言った。

 真っ赤の傘を片手に、白衣(ケーシー型と歯医者は言った)のまま弓佳は熱海へ家出したのだった。

 たぶん神話的な事情のため、あさましくも夫が妻を迎えにいくのはゆるされない。

 僕は断った。すると五指の熱量に喉をしめつけられて、すかさず突き飛ばそうと全身が波打ったけれど、どのような技か、ユニットの下から飛びだしたベルトと鎖がしゅるしゅるじゃらじゃら巻きついて、たちまち僕は拘束された。感動詞が幾つかこぼれたあとに放せと口走ってしまう不甲斐なさ、ふところの拳銃が騒ぎださないのはここが歯医者の神域だからだろうか、歯医者はありふれた愚昧さで凶悪な笑いをわらう。

「俺は赴くことが出来ないと説明したばかりだろう?」それから樹脂的な欺瞞の笑みをうかべて、僕の「うしょく」された歯に小型爆弾を仕掛けたと告げた。「君にも治療が必要だろう。ほかの歯科医師では爆弾を処理することが出来ない。妻を連れ戻してくれ。俺と妻は和解する」僕の肩に手をおいて「俺は未来の偶然を絶対に信じないが、今日の真夜中には観測史上もっとも強烈な風が吹くとの予報がある。俺の妻の骨がさきに折れないかやはり俺は心配だよ」「強風には君も気をつけるべきだ。なに、建物の中に居れば安全だし、すべての建物のすべての部屋へ順番に入れば確実に妻は見つかるさ。だってそうだろう? あとは、そういうことだ、わかるだろ」

 アイノウ、と歯を噛み合わせないようにこたえた。起爆装置を歯医者がもっていてすきなときに爆破できるのか、とたずねれば歯医者は「くれぐれも妻には手を出すなよ」と肩をすくめて「妻をメジロに連れ戻す。それだけを考えて行動してくれ」

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シリーズ 小説:ナイトスポット
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