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ナイトスポット 2

文:渡邉 宇京

写真:松原悠也

 メジロ? と弓佳は髪をかきあげ疎ましそうにわらう。

 だって僕は、と言いかける口を手でおさえたのは、弓佳の横顔をみて、瞳に羽ばたく自由への希求にうろたえたからなのか、曖昧にひらかれた唇の朱殷にひきつけられながらも僕のからだは後退っていて、なぜだろう、弓佳はきっと夜に似ている、僕はにわかに苛立って、転がっていた座椅子をなげつけ窓をぶちやぶってベランダに出た。ベランダはやたらと広い。

 手摺にからだをあずけると雨で頭が濡れた。レインコートのすきまから侵入し鎖骨をつたう水がつめたい。手首にぶらさがる懐中電灯は廃ホテルの下の竹林に光を投げていた。音の沈んだ住宅街の傾斜のむこう、深夜の街あかりは低く這う地霧めいてかすんでみえ、風はない。沖と雲の領域はあらゆる対象をふちどれるような暗さを剥奪された、不安の折り重なった暗さのために、鋏を拒んでいる。遠景に横たわる不可視の大怪獣の亡骸をおもう、そしてアナボコをみる。灯台だろうか、ほころびた夜の無表情にちらつく糸くずのような光のそれぞれがうつくしい。

「なら僕とハツシマへ行きましょう」と僕は言う。室内から弓佳がなにやら呟くのを鼻でわらって、外は気持ちいいですよ、ハツシマにはどうやったら行けますか。

「行ったことないの?」割れたガラスを踏む音がきこえた。

「熱海には大学生のころ一度来たきりだなあ。そのときは夏の浜辺の海水浴で、ほかはアタミックスに行っただけ。楽しかった」すると背中がたたかれて、弓佳はベランダの手摺にもたれかかりながら、アナボコのほうを指差した。指は雨に濡れる。

「そうなんだね。昼なら、昼のハツシマなら船とかサーフボードとかホバークラフトで行けるかもしれない」

「駄目だ」と僕は言う。あなたが行きたい、僕たちが行きたいと言ってもいいんですけれど、あのハツシマは昼のための待機としての夜に所属していない。怒らないできいてください、僕はほんとうのことを言います。今晩の夜はどうやら、時間や日付で切断できるような植物や衣類ではないようです。生きてんのがめっちゃつらいときに「眠れば大丈夫だよ」と言われて安心できる類の夜ではありません。そしてハツシマは不可視の大怪獣の亡骸の、不気味にひらかれた口腔の奥の歯にうがたれたアナボコ、ふたつ目の夜に空いた洞なんだ。平常の夜がうばいさられた場所にあらわれるあけすけのがらんどう。あの実情に到達するためには昼の船なんてけがらわしい。だって海上を推進したいのではないのだから。夜をわたる船が必要です。欲をいえば砲弾になって宙を吹き飛ぶクラゲたちとか、幽霊船がベストですけれど。

「ほんとう? ほんとなの、そう」と弓佳は言い、首をかしげてわざと演技だとわかるように、きっと目的はないのだ、純粋に遊技的に飽きないように、図々しさと媚びをまじえながら「馬鹿だね! なんでネガティブな前提が必要なの? もっとわかった振りしてさ、偉大なお告げみたいに言って。悪気はないけど、植物にも衣類にも興味ないよ。それに憧れるとしたら素晴らしい鳥だけ。ねえ、ハツシマってなんかツバメの巣に似てるとおもわない」と言いルルヴェを高く「ふたつ目かあ。わたしにはたくさんの夜の実感があるからイメージが違うな」

 ポイフルみたいに? 

「そうかもね!」くるりと一回転してから「けど数の問題ではないね。どうせ零の複数形なのだし、わかる? それに夜を数えあげてそれだけで満足するのって絶対センスない」恥ずかしいな「夜がどうかなんてどうでもよくない?」かかとを鳴らして「あーあ、ね。なんかキッチュな感じだ。ぜんぶ忘れて水風船とかでふざけたい、ぶつかると破裂するやつ、知ってるでしょ。割れたゴミで地面がカラフルになる」そしてアラベスク、シャッセ、アントルラッセ、けれどそのあとはしゃがみこんでしまって「べつにハツシマなんて行かなくてもいいんだよ。どうせ帰らなきゃいけないんだし。ふたりであのひとに謝ろう」弓佳の肩にかかった髪はぼざぼざで雨に濡れている。

 相応しい語頭をみつけられないもどかしさに耐えきれなかったのか、僕のふところからぴょんと顔を出して手に滑りこんだのは、黒光りのずっしり重たく厳めしい驕慢な拳銃だった。弓佳はたじろいだとおもうと、はねつけるように拳銃をにらんで、

「あ、とってもさわやかな友達がいる。すごいね。やっぱり青年はそうでなくちゃ。でもわたしたちってあんま歳はかわらなそうだ。わかりあえる年齢差なのかな、わたしたち。その鉄砲でわたしの肉体も心も支配してくれるわけ? それとも鉄砲さえあれば帰らなくてすむっていう考えなら、どっちも最悪だよそんなの。だって簡単に決めつけられるような夜じゃないんでしょう」ああ、もうと僕は唸る。

「早とちりですよ。わかりあうとか興味ないし肉体とか心とか切り分けるのも大嫌いだし、それにこいつは友達なんかじゃない。宗教家の父親の形見です。半年前に父親のこめかみをぶっ飛ばしてから、カラスのようにわがままに僕のもとへ渡ってきた。とにかく違うんです、僕はこの拳銃をあなたに差しあげたい。なぜなら」

「へえ、これがあなたを抑圧するの。変なの。変なひとだね」

 僕は拳銃を手渡そうとする。

 いらない、必要ないから。捨てたら?

 それならば、と銃身を握って竹林のむこうへ放り投げた。

「さあ、ハツシマへ行きましょう」

「どうして行きたいなんて言いだしたの? メジロはいいの」

「いいですよ」

 弓佳の顔が疑問符にゆがんだ。変なの、と呟いてから、弓佳は振りかえり部屋にもどって、暗闇から聞こえてくるのは「ふざけたいのにふざけきれない」のくりかえし。

 僕も部屋にもどった。うすら寒いのに空気のよどんでいるためか蒸れる暑さで、弓佳はなかば崩れて隣の部屋の見える壁にもたれかかり、むきだしの器官のように赤茶けてねじれた鉄筋を指先でなぞりながらしどけなくわらって「絶対にこの部屋のせいだ」と言う。

 そろそろ出ましょうよ、と僕はわらう。

「そうだね、この部屋さむいし。カラオケで降霊術でもしようか」

「むしろ暑いですよ。ところで、どうしてあなたの配偶者が自分で迎えに来ないのかわかりました。歯医者さんの呪文が何を意味していたのか。シンとかポリとかチョウとかヨギとか、山手線の駅ですね。山手線があのひとの領域で、神は自分の神話の外には出られないってことなんですか。これが歯医者の秘密なら、悪いなぞなぞだ、なぞなぞになってないかな。とにかく感動的じゃない。全然駄目ですよこんなの。感動がすべてなんだから」

 ふうん、と弓佳はわずかに下唇をつきだした。スミレ色のまぶたがラメとともにちらついて「感動とかどうでもいいな。わたしはあのひとのことが好きだよ、だってあのひと絶対なんにもわかってないくせに、それでもわたしを愛しているから。それって永遠の愛みたいでおおげさでよくない? 疲れるけどね」うわめづかいに「でもさあ、ほんとに連れてってくれるの? 俺を信じろってあなたは言えるの。それでたとえばおおげさだけど自由になれるの? さっきも言ったけど、基本的にわたしは素晴らしい鳥だけをいつも待ってた」

 懐中電灯で天井を照らして、薄汚れた画布のざらつきに「の」の字を描きながら、けれどなぜだか唇が躊躇している。鳥よりも虫になりたいとおもった。

 僕と弓佳はすくない荷物を拾い、濡れた鞄や傘には埃や塵がまとわりついていたので不快だった、扉のない玄関を出て絶滅した恐竜について話しあいながら廊下をあるいた。幾つもの折り返しの階段をくだって、なんにもないロビーに出ると弓佳はおおきなくしゃみをかました。

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シリーズ 小説:ナイトスポット
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