#スペシャル
タグ
エリア
#スペシャル
ナイトスポット 3

文:渡邉 宇京

写真:松原悠也

 外から廃ホテルを見あげる。巨大な骨だ。あまざらしの明快さでそびえたち、もはやかつての機能ばかりか記憶すら脱ぎさったくすみのない孤独のありさまを、自然な違和感でみずから青灰色につやめかせ、長方形の窓たちの暗闇のそれぞれは、化石の内側へとひらかれた混群の影をかたちなく窪ませる。乾いていて濡れている。華やいださえずりが聞こえたかとおもうと、誘惑されたヤシの木のすがたが壁面に怪鳥のけはいでぼんやりひろがり、飛び立つことのないはばたきで化石の足元に溜まった時間を波立たせ飛沫をあげる。

 坂をひたすらにくだって、海岸に出ようと目論んでいるのだ。

 雨は弱くなっていたけれど、弓佳が傘をささないのは変だなあとおもうと、どうしてとたずねるまでもなく「とくべつなときにしか開きたくない」と弓佳は言う。

 竹の林の道をぬけてシリツアタミチュウガッコウや公衆電話、電柱や真っ暗の建物を通り過ぎながら、ふいにあらわれる階段を横目に(うわっ猫だ、と弓佳が叫べばブロック塀のうえの猫がためらうように停止してそれから飛び降りる)あるきながら弓佳は「うしょく」の漢字を教えてくれた以外、しきりになにかしらを質問するのだった。

 あなたでもいいのだろうけれど、となりのひとをどう呼べばいいのかわからない。秋枝さんは嫌だし、弓佳さん、弓佳ちゃん、弓佳、ちゃんゆみ、ユーミン、ゆかみ、ゆっこ、かゆみ、それともカミーユ?

 白っぽく輝く水たまりを踏みつけて、思いのほか深かったので、ハイカットのスニーカーが黒くなり重たくなる。それだけだろうか、と水たまりのアスファルトの冷たい足を覗くと靴紐がほどけていたのだからかがんで結びなおして、これから僕たちはどこにむかえばいいのだろう、顔をあげるとあなたがいなくなっていた。首をめぐらせるが視線は何者もとらえることができず、不安にさいなまれた肩がふるえる。立ちあがるとくらくらした。寒気にいだかれたとおもうとからだの奥がにわかに発熱しはじめた。

 たとえば茫然と立ちつくしたのち、やがて不揃いの朝にさらされるのならば、灰を浴びた己の亡骸をひきずって、ドラッグストアが開いたら鎮痛剤を購入して今日は何月何日何曜日、鈍行の冷たい窓の無感動に額をあずけながら東京に帰ることもできただろうけれど、銃撃で砕けた花瓶から水が花が季節が崩れ落ちるように、駆けだしたじぶんに気がつく。

 海にむかえ、だから僕は僕の全体をきしませながら下へ下へ疾駆した。懐中電灯を放り投げ、レインコートを脱ぎ捨てると、目の前が唐突に白くなった。降りすさぶ雨が街灯りを乱反射させている。強烈に歯が痛くなり喉が渇いて、金属質の耳鳴りがする。ひるまずに走らなくてはならない。太い道から細い道へ、明るい道から暗い道へむかって僕は走った。転がるバケツを蹴とばした。竹の葉で頬を切った。急勾配な坂をいくつも駆けおりて、どこへむかうというのか、おおきな看板を通り過ぎ、カーブミラーを掠めるじぶんの影、右脚で地面を強く蹴って左折するとそこは高架下のトンネルだった。雨は聞こえる激しさだけになる。オレンジ色に灯った空間のよどみに菱形の白線がてらてらと浮かびあがるさまが、ここから先は後戻りがきかぬと脅迫する。だからなんだというのだ、むしろおあつらえむきさ、バカバカしいぜ、洞穴を突き抜け振りかえると熱海駅がかまえていた。雨が完全にやんでいて、夜は紺瑠璃。星もない。

 駅前のロータリーでは車やバスが点在していても人影はなく、足湯は枯れ、喫煙所に煙はたちのぼらずアタミックスにも誰もいない。走りだそうとするのだが、脚がおもうように動かないのは、疲労のせいではなく物理法則がことなるからだ、けれどなんだかなあ、だからといって速度があがるわけではないため、ほとんど泣きそうになりながら右脚と左脚を交互に、停滞を蹴りあげながら進む。信号機はずっと消えたまま。たくさんの窓がひらいていてシャッターも降りていない、けれど誰もいない。なにひとつ発光するものは見あたらないのに、おそらく街のぜんたいが明るい。

 道路には水風船の残骸が夥しいほどに散らばり敷きつめられていて、様々の色彩をつきつけたうえで忘れさせる鮮やかさで、愛情、快活、信頼、希望、革命、団欒、自由、復活、幸福、調和、孤独、平等、豊饒、誠実、期待、理性、霊感、高貴、宇宙、神秘、優雅、退屈、純潔、美徳、沈黙、葬礼、豪華をつたえて白々しくも花束になる。だから花束を片手に弓佳を捜した。僕のたどった道には草まで繁茂してふくらみ騒々しい。

 アタミギンザで弓佳の傘をみつけた。坂道に立ち並ぶ無人の商店にはさまれて、水風船の散らばる道路のそこだけアスファルトではなく土の盛りあがる場所に真っ赤の傘は突きささっていた。引き抜いてみるとめちゃくちゃ重かった。それから僕はふたたび進み、イトカワバシをわたる途中で地鳴りがきこえた。振りかえると灯りのない街の明るさのむこう、実情をうしなった稜線が屋上に置き去りにされて火山灰を浴びつづけたシーツのようにはためいて、うごめくものが山なのか空なのか判別のつかぬ彼方の歪みから、引き裂かれる鋭い叫び、切断された傷口からあふれだして樹木も建物も化石もなにもかもぜんぶ薙ぎ倒しながら押し寄せてくる怒濤は、観測史上もっとも強烈な、いちどきりの風だった。

 もたつく足に力をこめて、右手の傘と左手の花束で停滞をかきわけながら、ヤナギハシを通りすぎ、波の現実が聞こえたとおもうと遠く後方でギャンと弾けるのは、熱海駅および高架橋の城壁に強風の津波が衝突したのか、あおぎみれば風の怒濤は黒々とけむりをうずまきながら竜巻の複合のように巨大にふくれあがり、ちらちらと炎を煌めかせながら、あるいは体液の飛沫をあげながら、会いたさでいっぱいになった迫害で海にむかってせまりくる。

 多重にめぐらされた波状の欄干に飛びついて、港にたどりついたのだと悟った。海面は狂気を沈めた冷静さでゆらめいて、桟橋に舫っている無人の船たちは不安にあおられながらも期待にふるえ、陳腐で楽しい、待ちきれないほどにわくわくするぜと騒がしい。煉瓦を模したタイルなのか本当に煉瓦なのか、歩道の煉瓦の隙間からは湯気が昇る。この場所の名をスカイデッキだと知り、観光者の陽気さで明確なたくらみをもってベンチにのぼり、真っ赤の傘をひらいて高く掲げる。

 すると強風の無数の手のひとつが僕の背を激しくたたいて、それからベンチや煉瓦ともども僕をすくいあげ跳ね飛ばし飲みこんだ。失神してから意識を取り戻して、ならば意識こそが神なのか、僕は怒濤のなかのじぶんを見つけて、ついて来ているのかと首をめぐらせば、船たちも歓喜に絶叫しながら飛翔している。もはや超巨大な怪鳥になった風のなかでは電柱や車やガードレールや踏切やベッドや犬小屋にサーフボード、炊飯器と電子レンジと冷蔵庫、本棚があれば前から読みたかった漫画もあり、「金色夜叉」の銅像や顔ハメ看板、さびついた自転車に地球儀とサッカーボール、まるごとの鳥居もあればスーパーファミコンもあるし、電車の車両は竜のすがたに転じ、瓦屋根に窓ガラス、鳳仙花の種が弾けまくって、花火が輝きエロい下着が燃える、「東京物語」のDVDは天高く舞いあがり、厳めしい甲冑に日本刀と火縄銃、ニセモノの千両箱もあれば浮世絵も北斎の春画もエアホッケーの台もワニワニパニックもあり、その他もろもろ想像におまかせ、すなわち重さをもったすべての物がさながら救済のごとくもぎとられたけしきで、もみくちゃにされながら大喜びに大騒ぎ、生を肯定せずしていかに生きるといったありさまだった。

 だしぬけに、あるいは待機の果てに、たとえば無数のありうる夜のうちのひとつを偶然に選んだかのごとく、横たわっていた不可視の大怪獣が太くてながい首をもたげながらあたりを見渡し、だるくて重たいだろうその巨躯を右、左にとくねらせるように起こして、死の麻酔に濁った半覚醒を振り落とすためにからだをぶるぶるふるわせ、まきついていたクレマチスの蔓も脱落し、不可視の大怪獣はこちらを一瞥、実情をうしなった言語で語るとすれば死んでいたからこそ蘇ることが出来るのだと当たり前のことを言わんばかり、けれどもこの歯痛はなんなの、痛くて痛くて仕方がないのに誰もわかってくれない。怪獣らしく理由なく夜を壊しはじめ、壊しながらも自暴自棄にはなりきれない、いちどきりのながい咆哮のあと、ひとりぼっちの不可視の大怪獣は治療をのぞんでだらしなく口をひらいて、口腔の奥の歯にうがたれたむきだしのがらんどうを見せつける。夜に浮上するそれが島なのか穴なのか、きっとどちらでもない。

 歓喜の絶頂の物たちが、再会を祝して! と声に出せば、風は抱きつくようにぶち壊すように乾杯のさかずきが砕けるように、不可視の大怪獣に衝突した。僕は勢いで虫みたいに弾き飛ばされたが、傘でバランスをとりながらがらんどうに突入した。

 ナイトスポット。僕たちはこの真っ暗な実質欠損のうちにいるはずなのに、なんでどうしてあなたの姿形がわかるのだろうとおもえば、ちりちりと燃えつつ発光しているのは左腕のさきの花束だった。

 弓佳は放心のありさまで手渡された花束を見つめていたが、やがて瞳が鐘のがらんどうの鳴り響くように朱殷にかがやき、火ですら舐めかねないいたずらな微笑みを浮かべて「これで鳥になったつもり?」と言った。

「どうかな。鳥は好きだけれど僕はむしろたぶん、虫になりたい」と僕はわらう。

 すると手放された花束の落下とともに、弓佳の表情が齲蝕になっていき、弓佳の声は、さいてい、さいてい、さいてい、とあたらしい言語を放棄するように言う。ふいによぎった不安のとおりの軽やかな陳腐さで「さよなら」とつづいた。だからこそ僕は、けれどいったいなにができるというのだろう、ひとつの態度がつきぬけて、僕は弓佳にキスをする。弓佳の唇をとらえたとき僕の口腔でなにかが弾けた。

〈 了 〉

Share
Tweet
シリーズ 小説:ナイトスポット
2
1